騒音のない世界で本を読む

児童文学好きの読書日記

パンはしあわせの食べ物

ジオジオのパンやさん  岸田衿子作  中谷千代子           

 

大好きな絵本「ジオジオのかんむり」は

読み終わった後、やさしい気持ちになれるが

王者の老いと孤独がテーマになので悲しさや切なさもある。

しかし、この本(絵本というには分厚い)のジオジオにはそんな哀愁は微塵もない。

かんむりではなくコック帽を被ったパン屋のジオジオの表情は明るく優しい。

王であるがゆえの厳しさもない。

             

              

 

パンを作るのが大好きで毎日いろんなパンを焼くジオジオ。

しまうまパン、きりんパン、どせいパン。

どんなパンをやこうかなと考えるのも楽しみ。

 

ぱたん ぱたん きゅっ きゅっ 小麦をこねる。

ちぎってまるめて焼く。

ほかほかのパン。

焼きたてのパンのにおい。

胸いっぱいに吸い込みたくなる。

 

村の動物たちはジオジオのパンが大好きで

こどもたちは、おまけにもらうパンをとっても楽しみにしている。

ひこうきパン、さかなパン、ひなぎくぱん。

 

ぱたん ぱたん きゅっ きゅっ 小麦をこねる。

ちぎってまるめて焼く。

ほかほかのパン。

おいしいパン。

 

ジオジオには夢がある。

パン屋の隣にサンドイッチとお茶をだす喫茶店をつくること。

それを知った村の動物たちも大喜び。

おいしいパンとお茶とやさしいジオジオのいる店。

 

              

 

私はパンが大好きだ。

パン屋の前を通るだけでしあわせな気持ちになる。

なんなら「パン」という文字だけでもちょっと浮き足立つくらいパンが好きだ。            

 

労働で疲れた会社の帰り道、

パン屋が並んでる通りを歩く時だけはしあわせを感じる。

そこを通り過ぎて、混み混みの電車に乗らなきゃいけないとしても。

 

昨今とかく悪者にされがちなパン。

グルテン、糖質、炭水化物!

体にとっていい食べ物じゃないのはどうやら事実らしいけど

パンは確実に人(動物も)をしあわせにしてくれる。              

 

 

かわいさに心が和む

せかいいちのいちご 

林 木林 作  庄野ナホコ 絵

 

森のくまさんといちごの絵ならそんなに違和感を感じないが

氷の国に住むしろくまがいちごを大事そうにみつめいている表紙絵は

ちょっと意外で目に止まった。

 

        

 

絵本をめくってみれば「かわいい~♪」って言葉しか

でてこないくらいかわいいの連続。

花のチョーカーやブレスレット、アンクレットでおしゃれしてるしろくま

いかにも女の子って感じでわかりやすく可愛い。

乙女ゴコロがキュンキュンする可愛さ。

 

たった一粒届いたいちごに大喜びしていちごを窓辺に飾って眺めたり、

枕元に置いていちごの香りに包まれて眠ったり、

外国製の高価なお皿にいちごを乗せておしゃれした友達といちごを楽しむ。

猫脚のバスにピンクのソファ、いたるところピンクで着色されたページが

私のほとんど枯れてしまった「かわいい」を愛でる気持ちをふわっと蘇らせた。

 

        

 

絵本を見た時、一瞬、

「あれ? しろくまカフェしろくまくん?」って思ったけど全然違った。

間違えてごめんね。と謝りたくなるくらい違った。

 

もちろん「しろくまカフェ」のしろくまくんも大好きだけど

彼はかわいいというか、だまってればかわいいのだけど、

口をひらくとかわいくないというか、ダジャレ王?

まあ、そこが彼のチャームポイント(?)でもあるけど、

いわゆる「かわい~♪」ってキャラじゃない。

と、話がそれた。

 

この絵本のあらすじは、

しろくまがいちごを楽しむというシンプルなお話だけど

絵のかわいさに心が和んだ一冊だった。

図書館で借りて1週間、なんども手にとって絵を眺めている。

 

 

鉛筆で描かれた犬が愛おしい

アンジュール ある犬の物語 

  ガブリエル・バンサン

 

鉛筆でさらっと描かれた下書きのような絵だけの絵本。

文章はない。

初めて本屋で見かけたときはびっくりした。

これで出版できるの?って。

こんなラフな絵で? 下書きのままで?って。

でも手にとってちょっとパラパラめくっただけで

これは絶対買わなきゃいけないやつ!と思った。

 

               

 

ある日、走る車から投げ捨てられた犬。

必死でその車を追いかける。

「ぼくを置いてかないで! ねえお願い、待って待って!!」と爆走する。

その必死さが鉛筆で描かれたデッサンからひしひし伝わってきてうるうるする。

「お願い、待って待ってよー!!!!」

 

どんなに必死に走っても車に追いつけるわけもなく。

自分を車から投げ捨てるような非情な人間でも犬にとっては大事な家族なのだ。

その家族を探してさまよう犬の描写にまた涙が出る。

捨てられても裏切られても飼い主を求める。

だけど、どこにもいない。

そしてついに諦める。

諦めてあてもなく目的もなく、ただ、さまよう犬。

海を見つめ、空を仰ぎ、何を思っているのだろう。

遠い町並みを眺める犬の背中が淋しくて愛おしくてたまらなくなる。

 

鉛筆1本で描かれたデッサンだけの絵本。

文章もなくシンプルだからこそだろうか。沁み沁みと心に響いてくる。

犬好きだからかもしれないがこの鉛筆で描かれた犬を抱きしめたくなる。             

 

 

ドードーに会いたい

ドードーをめぐる堂々めぐり   川端裕人

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ドードー鳥、とっても気になる。

特に鳥が好きなわけではないのに

ドードーのイラストがプリントされたグッズなど見ると欲しくなる。

可愛くはない。でも心惹かれる。

 

数年前、ドードーの絵をふと描きたくなって参考資料にしようと

ドードーの写真をネットで探した。

しかし、探しても探しても誰かが描いた絵は出てくるけど写真はでてこない。

仕方なく「これじゃパクリじゃん」って思いながら

その誰かが描いた絵を参考に絵を描いた。

 

          

 

この本を読んで写真がでてこない理由がわかった。

絶滅したのは知っていたけど400年近くも昔、1662年に絶滅していたとは。

1662年、日本は江戸時代。

カメラなんてあるわけない、そりゃ写真がなくて当然だ。

 

そんな大昔に絶滅した遠い異国、モーリシャス島の固有種であるドードー

なんと日本に来ていたことがあるというから驚きだ。

長崎の出島に来ていたらしい。

三代将軍徳川家光の時代、がっつり“お江戸な”日本にドードーがいたのだ。

侍が闊歩する景色の中にドードーがいるのを想像するとちょっとシュールにも思える。

 

はるばる日本までやってきた珍鳥ドードー

日本に上陸した後の足取りがわからないときている。

おそらく将軍や地位のある人に見せる(売る)ために連れてこられたのだろうが

偉い人達がその姿を見た記録が残ってないし、

結局どこでその生涯を終えたのかがさっぱりわからないのだ。

出島から江戸に向かったのか、そのまま出島に留まったのか。

あんな目立つ鳥の消息がわからないなんて謎だ。

 

                   

 

そもそも謎だらけの鳥だ。

ドードーという名前の由来もはっきりしないし、その容姿もよくわからない。

私がイメージするドードーは「不思議の国のアリス」の挿絵、

ジョン・テニエルが描くドードーそのもの。

私のような人は多いと思うが、どうもそのドードー像が間違っているようだ。

ずんぐりした容姿ではなくて実際はもう少しほっそりしていたらしい。

体高60~70センチ、体重10~20キロ。

ほっそりしていたと言っても目の前にいたらさぞや大きく感じるだろう。

しかしすべて推測の域を出ない。

 

色は褐色~灰色で白ドードーも描かれているが白ドードーは実在しなかった。

ではなぜ白ドードーの絵が残っているのか。

白いのがいたらいいな~って願望で描いたのか。

食生活も行動もわかっていない。

ま、人間の存在が絶滅の原因だということだけはわかっているけど。

(つくづく人間って地球にとって害悪でしかないわ)

 

かつてはあったらしいドードーの剥製は劣化により処分されて

今見られる剥製は本物ではなく最近作られた複製だなんて。

現存するのは、ごくごく少数の骨と皮だけだなんて。

絶滅してるなんて。

 

ドードー、どこかでひっそり生きてやしないだろうか。

 

犬と猫がいればいい

子のない夫婦とネコ  群ようこ 

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大好きな群ようこの短編小説集。

犬猫の写真を観ているわけでもないのに

文字を追ってるだけなのに

まるで目の前にいる犬猫を愛でているかのように

顔をデレデレさせながら最後まで読んだ。

「そうそう猫ってこんな感じ、犬ってこんな感じ」と

文字を頭の中で画像変換して今まで私が出会った犬猫たちに置き換えて

「ああ~なんて可愛いのかしらん♪」と身悶えしながらニマニマ。

そしてそんな犬猫に振り回されてる人間の様子に激しく共感して

「うんうん、そうなるよね~しょうがないよね~」とうなずく。

          

猫を間にして川の字で寝るのが最高に幸せな子なし夫婦。

職場での猫好きネットワークの絆の強さ。

猫の動画が撮りたいがためにガラケーからスマホに買い替える母親。

野良猫がいつでも来れるようにと古い家を建て替えずに暮らす姉妹。

我が子にも抱かなかった愛情を捨て犬にそそぐ男やもめ。

 

ああうらやましい。

とくに「年の差夫婦と犬と猫」の話なんてもうこれ理想すぎん?

18歳年下の夫と事実婚で引き取り手のない犬猫と暮らすなんて。

 

50歳を過ぎた単身者(私)が犬猫を飼うのはちょっと難しい。

犬猫の寿命も伸びてきて人間の方が先にあの世に逝くリスクが高いから

単身者は保護犬猫の里親になれないらしいし、

一匹で取り残される犬猫のことを思うと

どんなに彼らのことが愛おしくてもおいそれと飼うことはできない。

 

その点、とっても若いパートナーがいれば安心だ。

事故にあったり病気になることに年齢は関係ないから

100%リスク回避できるわけじゃないけど

50過ぎの独居ババアの家で飼われるよりはよっぽど安心するだろう。

犬も猫も周りの人間も。

 

             

あ~あ・・とデレデレしつつため息が出た。

この小説に出てくる人間達は皆犬猫がいれば大丈夫、幸せって思ってる人たちだ。

家族のもめごとも人間関係のわずらわしさも

そこに犬猫がいれば取るに足らないどーでもいいことになって

ただひたすらに犬猫を愛でてしあわせに浸っている。

 

人間嫌いでHSP発達障害の疑いのある私だって

そばに犬猫がいればきっと万年鬱状態から抜け出して

毎日「しあわせ~♪」って言えると思うんだけどな。

でもそのためには独居をどうにかしなくちゃいけなくて、

でも誰かと同居するとより一層、鬱傾向が強くなって

また心療内科のお世話になること請け合いで。

はあ~

こういう犬猫小説読んで疑似体験してセロトニンを増やすしかないか。

 

 

 

犬生は人間次第

ある女の子のための犬のお話 ダーチャ・マライーニ著    

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この本の「わたし」が関わった犬の物語集。

アイスクリームが好きな犬、文句ばっかり言う犬、飛ぶことが大好きな犬。

可愛くてちょっとおマヌケな愛すべき犬の

ほっこりする話ばかりの本かと思いきやそうではなかった。

犬の病気や死、人間の身勝手でゴミ箱や道に捨てられる犬の話が綴られていた。

おそらく著者の実体験ではないだろうか。

 

              

 

中でも犬の安楽死の話はドキッとした。

怪我や病気で死が確定した犬の飼い主に獣医が言う

「死なせてやりませんか?」

「楽にさせてやりましょう。」

それは苦しみを取り除くため、犬のためだからと飼い主も獣医の言葉に同意する。

 

私にこういった実体験はないけれど

愛犬の苦しみを取り除くことが飼い主にできる最良の判断だと今まで信じてきた。

悲しいけれど死を早めることは犬を愛する故のことなのだと。

けれどそれは偽善だとこの本の「わたし」は言うのだ。

 

苦しみたくないのは人間の方で

愛犬が長く苦しむ姿に直面したくないからそれを追い払っている。

犬は死なせてくれと頼んだわけでもないのに。

犬には犬としての生から死へ移行する時間があるのだ、

そしてそれは尊重されなければいけないと。

つまり人間の勝手で死を早めたり遅らせたりすることはできないのだと。

               

こういう考えを持ったことはなかったからう~んと考えてしまった。

犬が動物が喋らないから

容易く安楽死という言葉を発することができるのかもしれない。

人間の場合、本人が死なせてくれと言うことはあるが

医者が簡単に安楽死を勧めることはないだろう。

ましてや家族や近親者は、本人が苦しいから死なせてくれと懇願しても

なかなか了承できるものではない。

              

しかし犬の場合はそれがわりと当たり前に行われる。

それは犬の寿命を人間が掌握してるということにならないだろうか。

 

 

装丁の可愛さに惹かれて軽い気持ちで手に取った本だが

犬猫大好き人間大嫌いな私には、全然軽くない重い本だった。

 

 

すべてに意味を求めてはいけない

人生なんて無意味だ   ヤンネ・テラー   著

 

意味のあるものなんてこの世には何もない。

ものはみな始まったとたん終わりに向かっている。

だから何をしても意味がない、無益だ。

 

自分の存在意義、人生の意味。

人生について世界についておぼろげに見えてきた思春期の子どもに湧き上がる疑問。

自分が今ここにいる意味はなんだろう?

どうせ死ぬのになぜ生きなきゃいけない?

意味がないなら今やっているすべてのことが無駄なのか?

 

  

 

思春期をこじらせまくってそのまま大人になった私。

人生の意味は極力考えないようにしている。

だって、意味なんてないって知ってるから。

私の存在なんてあってもなくても変わらない。

今私が消えてしまっても、世の中は滞りなく進んでいく。

つまり、私の存在意義はない。

 

人生の意味をまじめに考えたら生きていられなくなる。

うつまっしぐら、特急希死念慮行き。

人生だけじゃない、何事にも意味を求めたら、

それこそ今書いているこの読書日記なんて毒にも薬にもならない無用の長物、

1ミクロンの意味も存在価値もない。

それでも書きたいから書いてる。

それでいいと思ってる。

 

こじらせたなりにも大人な私は割り切る術があるが

(まあドツボにはまり、ちょいちょいうつを発症するけども)

思春期のこどもたちは割り切ることなどできないだろう。

            

 

「意味のあるものなんて何もない」と言い、

簡単に人生からドロップアウトしたピエールを憎んでしまうのもわかる。

意味のあるものはあるとピエールに認めさせるため作り始めた「意味の山」。

大事なものをひとつずつ積み上げていく。

子どもと大人の間を揺れ動く不安定な心理と

ルールは絶対遵守、離脱は許されないという集団心理や同調圧力が働いて

「意味の山」というより「復讐の山」と言った方が良さそうな山が出来上がる。

その山が実際にあったら直視できないであろう、恐怖の山。

 

この物語の終わり方にちょっとショックを受けた。

言わんとすることはわからなくもないがあまり後味の良い終わり方ではない。

なので私は、この物語を深く受け止めるのはやめて

人生の意味なんて考えるもんじゃないと再認識するに留めておく。